スーモ 関東旅行記

横須賀線の歴史的痕跡を探す ~大船-横須賀間編 明治領歌【再製建造中】~(by 横浜臨海公園さん)

スーモ 関東
一般的に「横須賀線」とは東京-逗子-久里浜駅間の路線と思われがちですが、実際は、大船-久里浜駅間23.9kmを称します。

帝國海軍は横浜に所在した東海鎮守府が敷地狭隘と当時横浜に雑居していた仮想敵国たる支那人に対する防諜上とを理由に明治17年(1884年)12月15日附で横須賀に移転し茲に横須賀鎮守府が改称成立する。

然し、現在と異なり当時は横浜から横須賀への道路は1本しか存在せず、且つ、当然未舗装な上に悪路で馬車通行すら難儀する状態だった為に、有事勃発時の人員物資等の緊急大量輸送に鑑み、初代鎮守府長官中牟田倉之助(なかむた くらのすけ)海軍中将(天保8年(1837年)3月30日~大正5年(1916年)3月30日)から輸送手段改善が提議される。

更に、明治19年(1886年)6月22日附で陸軍大臣 大山 巌(おおやま いわお)陸軍大将(天保13年(1842年)11月12日~大正5年(1916年)12月10日)、及び、海軍大臣 西郷従道(さいごう つぐみち)海軍大将(天保14年(1843年)6月1日~明治35年(1902年)7月18日)の連署で内閣に請議書を提出し鉄道設置が要請される。



国立公文書館に於いて現存する文書で、


鐵道建設ニ関スル請議書

相州横須賀ハ第一海軍区ノ海軍港ニシテ造船所武庫倉庫其他病院兵営練習艦隊等ヲ置キ鎮守府之ヲ管轄シ艦船ノ製造修理、兵員ノ補充ヨリ兵器弾薬被服糧食等ノ供給ニ至ルマテ海軍艦船ニ在リテハ之ヲ此港ニ仰カサルヲ得ス。又観音崎ハ東京湾口ニ斗出スル岬角ニシテ砲台ヲ置キ其防禦ニ充テ、実ニ東京湾防禦ノ要路ニ当ルノミナラス其背面ニアル長井湾ノ如キハ敵兵上陸要衝ノ地ナルヲ以テ、是亦陸軍ニ於テ最大枢要ノ地トス。然リ而シテ東京ヨリ横須賀観音崎ヘハ独リ海運ノ便アルノミ神奈川又ハ横濱ヨリハ連岡其間ヲ隔テ、峻坂嶮路車馬ノ途ヲ通セス、陸運ノ便ナキヲ以テ平時ト雖トモ風波ノ為メ輒モスレハ運輸ノ途全ク断絶シ困難ヲ生スルコト尠カラス。況ンヤ一朝事アルニ際シテハ兵器糧食ヲ横須賀ニ運輸シ陸軍軍隊ヲ長井湾地方ニ派遣シテ敵兵ヲ防禦セントスルモ運輸ノ途ナキカ為軍機ヲ失スルコトナキヲ得ス可ラサルニ於オヤ。故ニ此際汽車鐵道ヲ神奈川若ハ横濱ヨリ横須賀又ハ観音崎近傍便宣ノ地へ布設スルハ陸海両軍略上最モ必要オク可ヲラサルノ事項ニシテ大ニ両軍勝敗ノ関係スル所ニ之有之候條、汽車鐵道布設ノ義至急御詮議有之度此段請閣議候也

陸軍大臣 伯爵
大 山

海軍大臣 伯爵
西 郷 従 道

内閣総理大臣 伯爵
伊 藤 博 文
殿


の記述が見られ、行間に朝鮮半島を巡る当時の日清間の緊迫感が窺いさせられる。



他方、東海道線横濱-國府津間は明治20年(1887年)7月12日に開業したが、開通当時は戸塚-藤澤駅間に大船駅は存在せず、建設計画当初の予定では藤澤駅を起点に建設する計画だったが、鵠沼付近で人口密集地通過や長大隧道建設を要する事が判明し、横須賀線設置が政府内に於いても緊急性を要する存在と認識判断され、明治21年(1888年)11月1日に鎌倉郡小坂村字大船付近に信号所を設置して横須賀方面に分岐させる事に決定し工事が開始された。

然るに、路線設置先は三浦半島を縦断するものとなり数ヶ所の隧道設置を余儀無くされる。

殊に、名越隧道は掘削開始直後から三浦半島特有の砂岩、疑灰質岩、泥岩等々が混在する劣悪地質に工事は難航を極め、明治21年(1888年)7月30日には落盤事故も発生し死傷者が生じた。

また、当時は明治維新の王政復古から未だ醒めやらぬ過剰な国権回復運動が盛んな時代背景から世間では此れに伴う仏教軽視たる廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の風が満ち満ちており、古刹たる臨済宗円覚寺と言えども路線建設の前に例外的存在では無く寺側は有無を言わさず泣く泣く外苑たる白鷺池(びゃくろち)は過半が埋没させられ池と総門が分離を余儀無くせざるを得ない状況下に置かれた。
また、鎌倉も鶴岡八幡宮参道で約600年の歴史有する段葛(だんかずら)をも例外とは為り得ず、壱之鳥居から弐之鳥居に至る区間が撤去整理され跡地は線路に向かう緩い勾配を伴う頂点上に八幡踏切が設置された。

また、海軍当局は横須賀駅に就いて白浜村(現在の 稲岡町)に設置を希望したが、住宅密集地通過と区画整理とを要する為に逸見村で決着を見る。

然して、大船-横須賀駅間は明治22年(1889年)6月18日に正式開通した。

然し、何事にも例外は存在するもので、横須賀海軍工廠ドックで建造中の国産通報艦 八重山(1600トン 最大戦速20ノット) の進水式に合わせ、明治天皇が進水式に御臨席あらせられる事になり、正式開業に先立つ3月12日に新橋-横須賀間に御召列車が運転され此れが横須賀線運転史の嚆矢となる。

開業当初は大船-横須賀間の4往復45分運転で平均時速21.6キロだったが同年7月1日に東海道本線全線開業に伴うダイヤ改正で6往復に増便され、更に、明治23年(1890年)1月14日改正で若干スピードアップされ6往復35分運転で平均時速27.8キロとなる。

横須賀線は当時から列車運転本数が多い事から、明治35年(1902年)9月25日に、我が国最初の通票閉塞方式が採用され安全面に於いて寄与する。
然るに、明治42年(1909年)1月13日早朝、扇ガ谷隧道横須賀方坑門付近で旅客列車同士の正面衝突事故が発生し、速度が遅かった為に死者こそ出さなかったものの多数の重軽傷者を出した。
原因は鎌倉駅担当助役が通票閉塞機を不正操作し通票を取出した為で、大正5年(1916年)11月29日には東北本線三沢付近で同様の事故が発生し多数の死傷者を出す惨事が発生し鎌倉列車正面衝突事故が教訓になっていない。

現在の江ノ電の前身たる江之島電気鐵道は藤澤停留所を起点として漸次路線を延長させ明治40年(1907年)8月16日に鎌倉大町停留所に達したが、更に、八幡宮弐ノ鳥居まで路線延長と停留所設置を計画し工事資金の点で横須賀線とは平面交差を希望したが、当時の鉄道の監督官庁たる鐵道院と路面軌道線の監督官庁たる内務省とが列車運行の観点で安全面から難色を示し一時は暗礁に乗り上げるかに見えたが、最終的に鐵道院が2/3、残り1/3を江之島電気鐵道が工事資金負担する事で合意し、横須賀線は鎌倉駅を境に立体交差と築堤化される事で決着を見て、明治43年(1910年)1月に工事着手され僅か4ヶ月で竣工した。

横須賀線は開業後、輸送量の増加に拠り複線化が推進される。

大船-鎌倉間
大正5年(1916年)9月13日

鎌倉-逗子間
大正6年(1917年)3月

逗子-沼間間
大正3年(1914年)8月12日

沼間-田浦間
大正9年(1920年)10月19日

田浦-横須賀間 大正13年(1924年)12月25日

また、大船-鎌倉間複線化と同時に予てから各方面から切望されていた東京-横須賀間の直通運転が開始され、東京-大船間は東京-國府津間近距離列車に併結切離で運転される。

また、横須賀線は大正13年(1924年)完成を目処に1500ボルト電化が決定し、そのままでは口径不足で架線吊張が困難な為に、隧道口に臨時信号場を設置して単線運転しながら明治期建築の隧道口径拡大工事が実施されたが、不幸にして工事途中に関東大震災に遭遇する。

関東大震災発生時、横須賀線内では鎌倉駅構内停車中の第32貨物列車や田浦駅付近走行中の第514旅客列車に脱線転覆等の被害を生じ、乗客職員に少なからぬ死傷者を生じた。

特に、横須賀線関係では修学旅行で静岡から軍港見学の為に横須賀訪問中の静岡県立高等女学校(現 静岡県立静岡城北高等学校)生徒が横須賀駅下車直後に昼食前の点呼中に傘を忘れ駅に戻った生徒1名を除き集結中の教師生徒50数名の背後に聳える見晴山が高さ30メートル、厚さ20メートル、長さ415メートルに亘り崩壊落して全員生埋めになり、市内他所の生存者救出と道路復旧を最優先した為に崩壊現場は約3週間放置され猛烈な悪臭と共に崩壊した土砂上を無数の蠅が飛び交う惨状を呈した。

横須賀線は全線に亘り震災被害が生じたが、取敢えず9月5日に大船-横須賀全線で復旧工事が開始され先ず単線で復旧された。
然し、田浦-横須賀間は側面崩落や吉倉隧道破壊等々の被害が著しく他区関より開通が遅れる。
此の辺の描写は作家 内田百間(うちだ ひゃっけん)(明治22年(1889年)5月29日~昭和46年(1971年)4月20日)に依る短編小説『進水式』の記述にそれとなく震災前後の状況が描かれている。

大船-鎌倉間
9月9日復旧

鎌倉-逗子間
9月10日復旧

逗子-田浦間
9月13日復旧

田浦-横須賀間 9月25日一旦復旧、10月11日豪雨の為に再不通、10月25日再復旧


関東大震災復旧を最優先にした為に遅延していた電化工事が完成し、かくて、大正14年(1925年)12月13日の東京発横須賀行最終列車より蒸気機関車前部に電気機関車を連結する電蒸運転が開始された。

北鎌倉駅は地元から長年駅設置を求める声が出ていたが、具体的には、大正15年(1926年)4月に、当時の円覚寺住職 古川慧訓、及び、建長寺住職 菅原時安、両山信徒代表 栗田傳兵衛の連署で鐵道省に対し請訓書が提出された事で具体的動きが始まる。


即ち、

        請訓書

当地ハ大船駅ト鎌倉駅トノ中間ニ位シ其ノ何レニ乗降スルモ廿五町及至廿七町ノ長距離ヲ徒歩或ハ自転車ニ依ラサルヲ得ス其交通不便ノ為ニ夏季休暇ヲ利用シテ建長、円覚両山ニ参議シ座禅修業セントスル学生ハ年々数百ヲ下ラス 然レトモ鐵道不便ノ為鎌倉ノ一部ノミヲ見テ直チニ江ノ島方面ニ向ツテシマウノテ当村ニ夏ノ間タケテモ簡易停車場ヲ設置サレタク此段図面相添テ請願候也
尚円覚寺ハ横須賀線布設当時多大ノ犠牲ヲ拂フテ同寺境内ノ横貫ヲ承認シ鐵道ハ山門ノ中ヲ通リナカラ鐵道ノ不便ヲ嘆スル事多年縣道モ亦同寺内ヲ貫通スルヲ以テ恰モ付近村落ノ中心点ヲナス是同寺側ヲ以テ停車場ノ最好適地ナリトス


文面後半から横須賀線開通の際に於ける円覚寺側の恨み辛みが読み取れる。


北鎌倉駅は紆余曲折を経て昭和2年(1927年)6月1日に乗降場として開設されたが、此の為に小坂村山ノ内の栗田傳兵衛と円覚寺が所有する土地計72坪を鐵道省に無償提供して駅が開設された。

昭和5年(1930年)3月15日より横須賀線は全面電車化されたが、電車化当時は横須賀線専用車輌製造が間に合わず、已む無く、蒲田、及び、東神奈川電車区から京濱線用モハ31型やサロ18型を一時転用させ使用したが、モハ31型のロングシートに沿線利用者の顰蹙と不評を買うが、同年10月より此れらは漸次、長距離用クロスシート設置のモハ32型、サロ45型、サハ48型など横須賀線専用車輌が新製配置され交換される。
余剰となったED51型、ED53型電気機関車は勾配用に歯車比変更の上、中央本線浅川(現 高尾)-甲府間に転用される。
また、此れと同時に、大森駅への停車は京濱線電車に限定され、程ケ谷駅(現 保土ヶ谷駅)、及び、戸塚駅は横須賀線電車専用駅となり東海道本線列車は通過扱になる。

東京市民や横浜市民にとって明治期から大正末期は芝浦、大森、扇島、鶴見等々が手近な海水浴場地とされたが、第一次世界大戦後に於ける我が国の京浜工業地帯成立と共に重化学工業発達に依り此れらの地は大工場林立の場と化し急激な水質悪化と共に海水浴に不適当とされるに至った。
他方、代替地として一躍脚光を浴びたのが逗子であり、此の為に横須賀線は盛夏期は海水浴客輸送の為に超満員状態が現出する事態に至り、昭和3年(1928年)7月より東京-逗子間に海水浴臨時列車が運転される様になった。
特に軍部は健康増進も兼ね海水浴を奨励した為に、伊勢橿原両神宮参拝と共に戦時中に於ける数少ない公的認定の娯楽となり戦争末期の昭和20年(1945年)を除き逗子の街は大混雑を呈する状況なる。
此れに伴い、湘南逗子地区に於ける新聞発売量が通常時期の50倍を超える事態を生じせしめ、此の膨大な量の朝刊輸送の為に昭和7年(1932年)9月1日より5両編成の専用荷物電車が深夜運転され、木造モニ3型荷物専用電車を電装解除中間車化改造のサニ27型なる新形式車輌が誕生した。

昭和9年(1934年)12月にワシントン軍縮条約失効以降後に於ける新型戦艦建造を見越し、横須賀市蠣ヶ浦(かきがうら)に大型ドックが建設される事になり、翌昭和10年(1935年)7月に工事起工し、昭和15年(1940年)5月4日に第6ドックが竣工した。
因みに、此のドックが如何に大きいかは現在でも米巨大原子力空母が極東地区に於いて検査修繕が可能なのは第6ドック以外存在しない事からも明確である。
軍令部作戦課の要求に依り海軍省は46センチ主砲3門9本搭載のポスト・トレッドノート型超大型戦艦4隻建造を決定し、此れに基づき大和、武蔵、信濃、紀伊が建造され横須賀では信濃が建造されるが、建造中途にしてミッドウェイ海戦(昭和17年(1942年)6月5日)が勃発し帝國海軍空母4隻を喪失した事から、急遽、戦艦から空母に艦種変更される、昭和19年(1944年)11月19日に竣工し呉に回航する為に11月28日に横須賀を出航するが、翌29日に熊野灘沖に於いて米潜水艦の魚雷攻撃が原因で沈没し僅か10日余の命運の軍艦として記憶される。
此れら英米戦が想定され横須賀の街は緊迫感が募り、防諜上の理由から横須賀線逗子-横須賀間は横須賀湾内を望見されぬ様、海側の窓の日除けは全部降させられ車内には制服憲兵が警乗した。
同時に田浦-横須賀間で横須賀湾が望見される該当数ヶ所にはコンクリート塀が設置される。

横須賀線は横須賀-久里浜間が開通した昭和19年(1944年)4月1日に非常決戦大綱に基づき全国近距離列車への2等車連結を廃止し全列車共に3等車のみの運転となり2等車は3等車に改造すべく大井工機部で4扉サハ78型に改造中に海軍より2等車連結が要請され4扉化改造工事は中止され同年8月16日から横須賀線電車に2等車連結が復活したが、2扉サロハ46型は全車4扉サハ78型への改造工事着手済だった為に再連結は断念された為に全列車に2等車を連結する事は不可能な状態であり、概ね、3本に1本の割合で2等車が連結された。

横須賀鎮守府にとって昭和20年(1945年)8月15日の大東亜戦争終結は横須賀鎮守府にとって根本を揺るがす大事であった。帝國陸海軍はGHQ命令で解体させられ、新たに占領軍が横須賀に駐屯して来たが、進駐と同時に2等車は進駐軍に依り全車徴発され、運輸省鉄道総局は昭和21年(1946年)10月2日附で横須賀線の2等車は全車進駐軍専用車として日本人は完全に締め出され乗車不可となる。
然し、2等車が絶対的に不足していた為に、関西からクロハ69型を転入させた他、3等車のサハ48型をロングシートに改造して代用2等車として使用した。
後に、昭和24年(1949年)7月30日より2等車に空席がある場合に限り日本人の乗車も認められる様になるが、但し、日本人が乗車着席していて進駐軍の米将兵が立っている時は席を譲り2等車から退車する屈辱的表記が券面裏に記述されていた。



表紙は第1円覚寺踏切から円覚寺境内を見る

【旅行時期】2010/06/~2010/06/
【エリア】横須賀・三浦半島
【テーマ】歴史・文化・芸術
【投稿者】横浜臨海公園

かいひん荘鎌倉(旧村田邸)(by ドクターキムルさん)

スーモ 関東
 鎌倉市由比ガ浜にあるかいひん荘鎌倉(旧村田邸)の建物は、関東大震災直後の大正13年(1924年)、富士製紙社長の村田一郎氏邸として建てられた木造2階建の洋館であり、現在は旅館「かいひん荘鎌倉」に姿を変えている。
 「四季折々に趣ある古都鎌倉。旧村田邸に建ち、古都にふさわしい大正ロマンの佇まいと自慢の懐石料理で皆様をお迎え致します。アンティークな家具と古都の空気に囲まれて、 ほっとする刻の流れに浸って頂きたいと念じております。」とホームペイジにあり、かいひん荘鎌倉は鎌倉で唯一の純和風料理旅館として売っている。宿泊料金は、お一人様、一泊二(夕朝)食付、税金サービス料込みで、一般和室は18,900円~24,150円(21,000円~26,250円)、特別室庭付き和室は26,250円(29,400円)、特別室洋室は24,150円(26,250円)ただし、()内は休前日料金である。
 かいひん荘鎌倉洋館(旧村田家住宅洋館)として国の登録有形文化財(平成21年(2009年)8月)になっている。また、鎌倉市景観重要建築物第7号(平成4年(1992年)指定)にもなっている。
(表紙写真はかいひん荘鎌倉)

【旅行時期】2010/01/~2010/01/
【エリア】鎌倉
【テーマ】歴史・文化・芸術
【投稿者】ドクターキムル

川合邸(鎌倉雪ノ下)(by ドクターキムルさん)

スーモ 関東
 小町通が切れる鎌倉鶴岡八幡宮の左手の三叉路、鉄ノ井のはす向かいにある川合邸は、亜鉛引鉄板瓦棒葺きの青緑の屋根と、灰色のドイツ壁が木立の間から見える木造平屋建の洋風建築である。 庭の木立が鎌倉鶴岡八幡宮角の雑踏を遮断しているのだろう。
 この建物は、大正11年(1922年)に東京製絨株式会社の取締役だった小菅久徳氏邸として建てられ、昭和15年(1940年)に川合氏の所有となった。鎌倉市に残る数少ない関東大震災前の洋風建築として貴重なものだ。
 鎌倉市景観重要建築物第10号(平成7年(1995年)指定)になっている。
(表紙写真は木立に囲まれた川合邸)

【旅行時期】2010/01/~2010/01/
【エリア】鎌倉
【テーマ】歴史・文化・芸術
【投稿者】ドクターキムル

星野写真館本店(鎌倉腰越)(by ドクターキムルさん)

スーモ 関東
 鎌倉腰越商店街の龍口寺門前にあるのが星野写真館本店である。木造2階建であることは分かるが、築年などは不明である。しかし、現在まで残っているところから関東大震災以降の建築であろう。すなわち、大正13年以降昭和10年くらいまで建築年代であろう。木造の建物の前に装飾を施した「看板建築」と呼ばれるものだが、店名が「店本館真寫野星」となっていることや、その下にNOSHINO STUDIOと英語表記してあるところがいかにも時代を感じさせてくれる。また、左書きでの日本語(漢字)表記と右書きでの英語表記の2段表記された店名自体のバランスの悪さも楽しめる。その後に敵国文字(英語)での表記は無くなることや建物の見た目の古さから大正末から昭和初期が順当なところである。
 商店街の通を江ノ電が走るために、写真では架線が入る。垂れてなく、真っ直ぐなのが電車の架線であることを示している。
(表紙写真は星野写真館本店)

【旅行時期】2010/03/~2010/03/
【エリア】鎌倉
【テーマ】歴史・文化・芸術
【投稿者】ドクターキムル

鎌倉の石碑巡り(4)-鎌倉駅から材木座(by ドクターキムルさん)

スーモ 関東
 鎌倉には戦前に建てられた石碑が多くある。それを巡ろうと出かけた。鎌倉市教育総務部教育センターのWeb:鎌倉市GreenNet「鎌倉の石碑」(
  • http://www.city.kamakura.kanagawa.jp/kyouikuc/sekihi18.html
  • )を頼りに、ここに掲載されている84の石碑を順次巡った。結論から言うと、このWebでは石碑の所在地の番地や時には町名までに間違いがあり、これを頼りに全部巡ることはとても出来ない相談だ。実際に鎌倉市教育総務部教育センターの者が石碑の所在地を確認してWebに掲載したものと思われるが、まるで小学生以下の仕事ぶりだ。少なくとも、鎌倉町は昭和14年11月3日に鎌倉市になっているのであるから、これ以降の昭和15年3月や昭和16年3月に建てられた石碑が鎌倉町青年団ということはありえようか。石碑には鎌倉市青年団と彫られている。碑銘が正しくないものも何碑か見受けられる。税金を払っている鎌倉市民は抗議すべきかも知れない(。電話番号:0467(23)3000
    Fax番号:0467(24)5569 内線番号:2465 メールアドレス:kenkyu@city.kamakura.kanagawa.jp)。実際に行かれる場合には鎌倉史跡碑事典(
  • http://www.kcn-net.org/sisekihi/menu.htm
  • )(83石碑)で調べてからの方が確実であろう。
     日蓮上人の所謂「辻説法」の旧跡を示す石碑も、今も大路の2箇所にある。「日蓮大聖人辻説法之旧地」(本興寺、建立年は不明)(大町の本興寺門前)と「日蓮上人辻説法之阯」(鎌倉町青年団、昭和11年)(小町2丁目)である。当時は大町、小町ともに鎌倉の繁華街であり、そこの辻で日蓮上人が説法したことはあっただろう。どちらとも言えない。しかし、「俊基朝臣墓所」(鎌倉町青年会、大正6年)と「玉縄首塚由来」(玉縄史蹟顕彰会、昭和43年)と「稲村崎」(鎌倉町青年団、大正13年)と「主馬盛久之頸座」(鎌倉町青年団、昭和10年)と「勝長寿院旧蹟」(鎌倉町青年会、大正6年)の5つは建てる必要のないものである。墓前に立つ大きくて立派な「贈従三位日野公墓碑銘」(明治17年)と古くて(建立年は剥離して判読できない)立派な「玉縄首塚碑」、公園の石碑群の中心となる古い「稲村崎碑」(明治27年)の石碑があり、「主馬盛久之頸座」の横には古い「盛久頸座」の石碑(大正8年)があり、「勝長寿院旧蹟」(大正6年)の横には古い「勝長寿院旧蹟址碑」(明治42年)があるからだ。また、「玉縄城址」は2つあり、何やら「大森貝塚」碑のようだが、団地内にある新しい石碑(鎌倉友青会、昭和31年)は記載内容に乏しい。これに対し、諏訪壇(城祉)登り口にある石碑(鎌倉同人会、大正15年)の方が古く、記載内容もしっかりしている。したがって、「玉縄城址」(鎌倉友青会、昭和31年)は蛇足である。石碑建立当時に「事業仕分け」があったならば、蓮舫議員でなくても「2つはいらないでしょう。」となる。付け加えると、平成12年に建てられた頼朝墓前の「頼朝公顕彰碑」(源頼朝会)は新し過ぎよう。
     全てが公開されている訳ではない。「偏界一覧亭旧跡」は瑞泉寺裏山にあるが、鎌倉石の階段が磨り減ってしまったとして公開中止になっている。実際に公開中止に到った理由は、この史跡がいたずらされたことがきっかけのようだ。一人の心ない行為が鎌倉を訪れる人たちの楽しみを奪ってしまう。
     現在、石碑がないものもある。「和賀江嶋」(鎌倉町青年団、大正13年)は昨年秋の台風で倒壊し、市文化財課で修復中である。
     民家の敷地内にあるものがある。「永安寺址」(鎌倉町青年団、大正15年)は造園業を営む植政さんの庭にある。「荒居閻魔堂阯」(鎌倉町青年団、昭和13年)は民家(借家)の庭端に建っている。これらは民家の人に断ってからでないとならないのは言うまでもない。また、「玉縄城址」(鎌倉同人会、大正15年)は女子校(清泉女学院(中・高校))の敷地内であり、校門でその旨を告げ、校内受付で申請書をもらい、その書面に必要事項を記載して許可を受ける必要がある。
     石碑の中には立地場所が悪いものがある。「西御門」(鎌倉町青年団、大正15年)と「桑ケ谷療養所跡」(長谷上町文化会、昭和37年)は道路上にある。いつ車が衝突するとも限らない。「桑ケ谷療養所跡」は新しいものだが表面には車であろう、こすれた痕が見られる。壊れてからでは遅い。道路から奥に引っ込めてほしいものだ。
     最も重要なことは、これら大正6年以前にも鎌倉には石碑が建てられていることだ。「贈従三位日野公墓碑銘」(明治17年)と「玉縄首塚碑」と「稲村崎碑」(明治27年)、「盛久頸座」(大正8年)、「勝長寿院旧蹟址碑」(明治42年)は上述したが、他にもある。目に付いたところでは、光則寺石碑、御霊神社石碑(大正2年)、大江広元墓所石碑、毛利季光墓所石碑、「明治天皇閲兵之処」石碑(八幡宮)(明治6年)、「鉄道轢死之碑」(明治42年)、「復興寄師芳君之碑」(海蔵寺)、「竺僊梵僊和尚顕彰碑」(葛原ヶ岡ハイキングコース)(昭和15年)、「道路開墾記念之碑」(稲村ガ崎)(昭和13年)、「ローベルト・ゴッホ碑」(稲村ガ崎)(大正元年)、「関東大震災慰霊碑」(浄泉寺)などが挙げられる。
     一番気になる碑は、寸松堂(鎌倉市笹目町5)前の「これより東海道」の石碑である。昭和11年に有形文化財に指定されている店舗(木造2階建搭屋付(一見木造3階建)、九輪が上がる)を建てる際に、庭にあった石碑が邪魔になったので店先に移したものだそうだ。この裏には「塔之辻」(鎌倉町青年団、昭和4年)があるが、道路は交差していない。かつては辻であり、道路傍には道標があったのであろう。中砥にするような石の材質にも見え、丈夫そうだ。かつては藤沢から鎌倉を経由し、朝夷奈切通を越え六浦に至り、走水から房総に渡る「古東海道」があった。その道標である可能性もある。それならば400年以上前のものであり、貴重である。
     今回は最後に残っている、JR鎌倉駅から材木座までのコースを巡る。
     都合丸4日かかったが、鎌倉の正月気分を少しですが伝えられたのではないでしょうか。
    (表紙写真は浜の大鳥居跡)

    【旅行時期】2010/01/~2010/01/
    【エリア】鎌倉
    【テーマ】歴史・文化・芸術
    【投稿者】ドクターキムル

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