アイデム 関東に関する質問

アイデム 関東 バイトを決めたきっかけになった求人雑誌(サイト)は?

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アイデム 関東旅行記

 美しい火山湖を抱く、日光山群最高峰「奥白根山」2,578m登山(by いぬちゃんさん)

アイデム 関東
日本百名山の一つ日光「奥白根山」・関東以北の最高峰2,578mへ
山麗の中禅寺湖畔「菖蒲ヶ原キャンプ場」に二泊して日帰り登山をしてまいりました。

【旅行時期】2010/07/18~2010/07/18
【エリア】湯元温泉
【テーマ】登山・ハイキング
【投稿者】いぬちゃん

鎌倉円応寺(by ドクターキムルさん)

アイデム 関東
 鎌倉建長寺前にある円応寺は臨済宗建長寺派の寺院で、新居山円応寺という。もと由比ガ浜にあった荒井閻魔堂と呼ばれるお堂で、江戸中期に現在の場所に移された。 本堂には仏師運慶作と伝えられる閻魔大王像が正面に据えられた十王像が並ぶ。本堂は17世紀後半に建てられたもので、関東大震災に倒壊し、昭和になって古材を使って再建されたものだ。
 鐘楼は寄棟造りの萱葺きで、江戸時代後期(18世紀末)のものである。また、階段を登ったところにある山門には蕾の付いた菊の飾り瓦が上がっていて、屋根の反りも鎌倉にはない優雅さがある。京都あたりからの移築であれば納得できる。
 たまたま、本堂横の墓地に知人の墓参りに来ていた年配の人とプリンターのことで長話になった。インクが固まって書けなくならないように細心の注意を払っていることなど話していた。私は写真のプリントはネットで注文しているから、L版でも5、6円と言ったところで、とても自分でプリントアウトするほどのコストは懸けてはいない。また、プリンターともご無沙汰しており、必要な時にはセブンイレブンでプリントアウトしているくらいだ。
 鎌倉でも参拝者の少ないお寺ではこうした思いもよらない出会いもあるものだ。
(表紙写真は円応寺)

【旅行時期】2008/07/~2010/03/
【エリア】鎌倉
【テーマ】寺社・札所めぐり
【投稿者】ドクターキムル

1年ぶりの富士登山 ~2010年夏~ (by sagwaさん)

アイデム 関東
福岡から埼玉へ引越しをしましてはじめての3連休に富士山に登ってきました。
関東から近くてすぐ到着しました。

しかし人は多いし、富士山はやっぱりきついです。

【旅行時期】2010/07/17~2010/07/18
【エリア】御殿場・三島・沼津
【テーマ】登山・ハイキング
【投稿者】sagwa

鎌倉長勝寺(by ドクターキムルさん)

アイデム 関東
 名越踏切を渡った鎌倉市材木座にある長勝寺は日蓮宗の寺院で、石井山長勝寺という。創建は弘長3年(1263年)、開山は日蓮上人、開基は石井長勝である。
 境内には日蓮大聖人辻説法像と囲むように四天王が建っている。この日蓮上人像は、関東大震災直後の大正12年(1923年)10月に洗足池畔に建立されたものが、昭和41年(1966年)に長勝寺に移されたもので、高村光雲作である。洗足池は日蓮上人ゆかりの地であり、身延山久遠寺から常陸へ湯治に向かう途中に、池のほとりで休息し足を洗ったという言い伝えが生まれ、「洗足」となった。また、日蓮上人が袈裟をかけたと言われる「袈裟掛けの松」(3代目)も残っている。
 寺では檀家以外にはトイレを貸してくれない。そのためではないだろうが、桜の頃でも境内にはさほど多くの人はいない。本堂や日蓮上人像と四天王が建つ境内は何か派手さがある寺ではあるが、何時行っても人は少なく、落ち着いた雰囲気の寺である。
(表紙写真は長勝寺本堂(帝釈堂)と日蓮大聖人辻説法像)

【旅行時期】2008/03/~2010/03/
【エリア】鎌倉
【テーマ】寺社・札所めぐり
【投稿者】ドクターキムル

東海道本線の歴史的痕跡を探す ~横濱驛移設変転史編【建造中】~(by 横浜臨海公園さん)

アイデム 関東
明治5年(1872年)7月11日に品川-横濱間が鉄道仮開業以来、横浜駅はその場所を3回移動している。

開業当初の横浜駅は現在の桜木町駅前広場付近に所在した事は広く知られているが、2代目横浜駅が旧東急東横線高島町駅付近に存在していた史実は横浜市民と言えども忘れ去られているのが現実です。

初代横浜駅から路線が西に延長され当時と言えど横浜駅の頭端式スイッチバック構造では運転上不便この上も無く、間も無く日清戦争勃発と共に軍用専用列車運転目的の為に陸軍省は初代横浜駅を無視し短路線建設で輸送の効率化を謀ります。
此れが現在の路線の原形です。
後に、廃止された神奈川駅から平沼町付近を経由して程ヶ谷(現 保土ヶ谷)に至る新線が開通以来、長距離列車は初代横浜駅を経由せず直行する。
短路線上に平沼(ひらぬま)駅が開設されたのは明治34年(1901年)10月10日で此れを機会に短路線は陸軍省から逓信省鐵道作業局に所管変更されたが、当時の平沼は葦繁る湿地帯上に在り人家も稀で夜ともなると漆黒の世界であり、利便性から横浜市民は神奈川駅から長距離列車に乗車していた。

大正3年(1914年)12月19日、当時の鐵道院は平行す京濱電気軌道に対抗すべく品川-横濱間を複々線化し各駅停車列車の線路を1200ボルト電化工事を施工の際に神奈川-櫻木町駅間の中間に高島町駅を開設し品川-高島町駅間を電化して翌日より都市間高速電車を投入したが試運転もせずいきなり本番を迎えた為にトラブル続きで、止む無く同年12月26日に電車運転を一時中止する。
此れが2代目横浜駅の嚆矢となります。
そして翌年の大正4年(1915年)8月15日に横浜市民の便を考慮して高島町駅にルネッサンス様式煉瓦造3階建の壮麗な建築物と共に開業したのが2代目横浜駅で設計者は東京駅や萬世橋駅と同じく辰野金吾博士が担当した。

2代目横浜駅は改札口を2階に設置して跨線橋で東海道線と京濱線各ホームと連絡する現在で言ふ橋上駅構造で当時としては画期的且つ大胆な構造でしたが、反面真夏ともなると駅全体が蒸し風呂状態で苦痛だったとの古老の回顧も仄聞している。

櫻木町所在時代同様、駅構内では現在も桜木町駅構内で営業する川村屋(かわむらや)がレストラン営業を行ない、浜っ子は市電で早めに横浜駅に到着し待ち時間を川村屋で食事を済ませ列車に乗り込むと言ふスティタスを確立させていた。
また、高島から程ヶ谷(現 保土ヶ谷)に抜ける貨物専用線は駅前を高架線で貫通構造だったが、昭和4年(1929年)9月16日に廃止されるまで訪横者の目には煉瓦建築物の目の前に高架線が存在し轟音を立て威勢良く煙を吐き走り抜ける蒸気機関車が貨物列車を曳き行き来する姿を目にし奇異さを感じたに相違無かったと思われる。
但し、2代目横浜駅開業と同時に平沼駅が廃止される。

2代目横浜駅開業に拠り石崎川を挟んだ駅裏側は何も無い葦そよぐ湿地帯だったが次第に商業地としての形態が整備され平沼商店街が形成さるに至ったが、関東大震災に伴う再開発で駅移転が決定的致命傷となり、現在ではすっかり衰退してしまったが、此の点では、大都市中心部に所在しながら栄枯衰退著しい例として、東京萬世橋駅や大阪湊町駅や片町駅所在地付近に共通する事例と言える。

また、櫻木町から高島町に駅が移転開業した際に当時の鐵道院が横浜(高島町)-櫻木町駅間の旅客営業廃止を検討していた事は当時の資料を検討する限り事実だったと考えられる。
然るに、当時の横浜駅は市内への入口拠点として駅前から市内中心部に対し市電が開業し輸送を独占していた状態であり、鐵道院は都市間輸送たるインターバン輸送を主とする指向であれば良く、サバー輸送たる短区間輸送を行う必然性は何ら見出し得なかったものと思われる。
即ち、2代目横浜駅開業と同時に横浜(高島町)-櫻木町駅間の旅客営業形態を現代人の我々から見て極めて驚異に感じるかもしれないが、朝夕4往復のみの運行に限定した事からも鐵道院の真意の一端が読み取れる。
4ヶ月後の12月30日になり櫻木町駅まで電化区間が延長され電車運転を開始したが、それとて旅客営業継続を積極的根拠が存在したとは傍証に乏しい。
他方、大正7年(1918年)4月1日に横浜-櫻木町駅間の高架化工事が竣工し該痕跡は現在でも見られる。

死児の年齢を数えるの例えでは無いが、若し、関東大震災の如き予想外の事態無くば現在でも横浜駅は高島町に設置されていた公算が高いと推定される。

更に、平沼商店街は伊勢佐木町や元町と並ぶ横浜屈指の高級志向商店街に発展した可能性が高かったと思われる。

然し、関東大震災で2代目横浜駅は損壊被害こそ免れたものの近所の火災が延焼全焼し駅機能が一時的に壊滅する。

震災復興計画の一環として最大懸案事項として当時の内務省建設局は高島町から平沼町浅間下に抜ける新規道路建設(現在の県道横浜生田線)が計画され道路建設上に駅本屋が存在し支障する為に当時の鐵道省に対し2代目横浜駅の撤去移転を打診する。
帝都復興院は神奈川-櫻木町間の旅客営業廃止を前提とする高架線撤去をも横浜市に打診します。
然し、当時の渡邉勝三郎横浜市長は、『横浜の現状に鑑み到底納得できず受け入れ難い』として帝都復興院や鐵道省に対し強硬に拒否姿勢を見せ、代案として北幸町の米ライディングサン石油会社所有地を横浜市が買上げ此処に新停車場設置を要求します。

此の辺の経緯に就いては現存する当時の内務省対横浜市との間に交換した公文書を仔細に検証すると緊迫した遣り取りが伝わる。
当時鉄道の復旧工事は最優先で進められ、全損し一番被害が酷い馬入川橋梁ですら9月6日工事着手にも拘らず、神奈川-櫻木町間の復旧工事開始が12月5日着工を見ても鐵道省が路線廃止に対し積極的だった意思を有するのは明白な事実と見るべきです。
横浜市復興会も駅移転に関し全面的に反対し移転条件として、
1)市の脊髄に相当する桜木町通と直線部を位置にする。
2)平沼町は一辺に偏し市の将来の為に海岸位置が効果大。
と結論付けていた。

結局、横浜市の要求が受容れられ、新駅設置まで高島町の現駅で営業後に北幸町付近に移転する事で合意する旨、大正13年(1924年)2月6日附公文書に見られます。

因みに、最近公刊された2代目横浜駅に関する最新文献に於ける記述中、横浜駅が高島町から現在位置に移転した最大理由として、駅構内を国道が直角に交差し常に踏切が閉まっていた事に拠る横浜市民をして監督官庁たる鐵道省に対する反発が存在し遠因だったと称する記述に就いて、然し、実際に該道路、即ち、現在の横浜生田線竣工は横浜駅が現在地に移転後の昭和4年(1929年)1月であり、日時に対する整合性が合わず矛盾する。
震災発生当時は道路自体が存在せず、故に、該記述に関する限り史実に反し、亦事実無根である。

かくて、横浜-櫻木町間は存続が決定し昭和39年(1964年)5月19日に桜木町-磯子間が開通し横浜-桜木町間を含め『根岸線』に編入されるまで東海道本線支線として存続する。

紆余曲折しつつ昭和3年(1928年)10月15日に現在地に移転したのが3代目現横浜駅です。

京濱線は昭和5年(1930年)1月26日に3代目横浜駅構内から高島町に至る連絡線が竣工開通し、此れを以って戦前に於ける鐵道省所管路線網が完成する。

3代目横浜駅開業に伴い、即ち、2代目横浜駅所在地たる現在の西区高島町一帯の衰退をもたらし、同じく、神奈川駅廃止は神奈川区青木橋一帯の凋落の原因となった。


尚、本旅行記使用の歴史的写真資料は断り無きものは全部横浜臨海公園個人所蔵品。


表紙は第2代目横浜駅本屋絵葉書
横浜臨海公園 蔵

【旅行時期】2009/03/~2009/07/
【エリア】みなとみらい・桜木町
【テーマ】歴史・文化・芸術
【投稿者】横浜臨海公園

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