とらばーゆ 関東に関する質問
既卒者の就職活動の仕方がわかりません!
現在24歳の女性です。短大を卒業後、精神的な病気にかかっていたこともあり、就職をせずにアルバイトを幾つかやってきました。しかし、だんだんと歳を重ねていく中で、同じ歳の友人は社会人となり、見た目も学生の頃とは違い、社会
女性の人材募集メディアは?
。-企業の採用担当の方-Q:上記業務の募集広告を掲載するメディアで、おすすめのところがありましたら教えて下さい。(広告はWeb、雑誌に掲載する予定です)-関東圏で転職活動をしていた(している)女性の方-Q:頻繁
美容部員の契約社員
私は、化粧品メ-カ-に就職したいのですが それって求人をどうやって探すんでしょう?メ-カ-によっては、ブランド名ではない親会社だったりするので検索しても求人募集が載ってないものもあるんです。この前もアナスイ
とらばーゆ 関東旅行記
梅雨明けた三連休の一日目は最高♪@丸の内&表参道(by gonzo_annieさん)
今日は三連休初日でとても楽しみにしていた日。
朝、「関東も梅雨明けした模様」との発表に思わずニヤっと。
外は快晴。今日は暑そうだな。。。。
充実した一日になった。
・新丸ビルでランチ
・丸の内でウィンドウショッピング
・渋谷で映画
・渋谷でウィンドウショッピング
・ブルガリイルCafeでお茶。
何て良い休日なんだろう。
それにしても暑かった。でも大好きな夏本番になった。
アカシアの大連を訪ねて(8)大連・大清花餃子店での夕食。 (by ちゃおさん)
今朝は中々忙しい1日だった。盛り沢山のツアー、最初に星海広場、星海海岸を観光し、そのまま旅順まで行って、203高地、水師営での昼食、午後は、老虎灘、及び広場を観光し、今日の観光はようやく終了となる。
一旦ホテルに引き上げて、1時間強の休憩を取った後に、今晩は有名な餃子店での夕食。
休憩を利用して、仲間4人とホテル近辺の勝利広場の商店街を歩く。この大連駅前は大きな地下商店街が作られていて、細い通路が入り組んでいて、案内表示板をよくみないと迷子になってしまう。
しかしそれも良くしたもので、大体の表示板には「大連駅」の方向が示されていて、「駅」がどちらの方向かが把握できれば、グルグル地下街を迷うこともない。
地上に出たとこころに果物売りの屋台なども出ていて、珍しい、中国のビスタッチオ、「はしばみ」なども売られていて、買ってみる。又、殻つきの「落花生」なども今は日本では余り見かけなくなったが、1袋5元とか8元、日本円では100円もしない。それからこれも又最近の日本では余り見かけなくなった「やまもも(山桃)」などあって、皆で食べるよう、1袋づつ買って帰る。
さて、今晩の夕食、この町で100年以上の歴史を誇る有名餃子店「大清花餃子店」に案内される。中国風の真っ赤に彩色されたレストランに入ると、まだ7時前と言うのに、店は満員の客。有名であると同時に美味しいに違いない。
それぞれグループは3テーブルに別けられ、1卓10人程で囲むが、出てくる料理は、もう全て平らげる。餃子もシュウマイもその他の料理も皆美味しい。さすが100年の歴史を誇る店だけのことはある。
後の壁には清朝歴代の皇帝の顔写真が掛かっていたが、多分戦前の満州王国華やかし頃、満鉄職員、関東軍、満州国日本人官僚なども利用していたに違いない。何と言っても満州国初代皇帝溥儀は清朝王国の血統を引き継ぐ皇帝に他ならなかったから。
【旅行時期】2010/06/25~2010/06/28
【エリア】
大連
【テーマ】
【投稿者】
ちゃお
小金井から小金井へ(2)円仁さんの古里「壬生」。(by ちゃおさん)
東京府中市が嘗ての武蔵国の国衙で、その北およそ10キロの場所に武蔵国・国分寺、国分尼寺が、今、国分寺市となっているがあり、その隣町が当方の住む小金井市。
今日訪問している小金井は、栃木県下野市にあって、この町には国分寺もあれば、奈良時代の日本3大戒壇の一つ、下野薬師寺もある。
関東(坂東)の北と南に小金井と国分寺、二つの町名、史跡があるから、知らない人にとっては、混乱するかも知れない。
斯く言う自身も少しばかり混乱し、前回このブログで、栃木県の嘗ての地名を「下州」と書いてしまったが、正しくは「野州」。
実は、昨日、当方ブログを見て頂いた「風太」さんと言う、栃木県在住の方にその指摘を受け、今日ここに訂正する次第である。
当方、不明を恥じると共に、貴重なご指摘を頂いた「風太」さんに感謝する次第である。
そう下野「野州」。この国分寺の横を流れる黒川を挟んで「壬生」の町があり、今から約1200年前、丁度延暦寺が創建されたころ、この地で生まれたのが慈覚大師・円仁さん。
宇都宮氏・壬生一族の御曹司としてこの町で生まれた円仁さんは、嘗て生誕の頃使ったとされる産湯の井戸もまだ尚壬生寺の境内に残され、この町の人々の誇りとし、敬愛とするところでもある。
円仁さん。幼少の頃より秀で、この町の近く小野寺の里にある大慈寺で修行し、後、比叡山に登り、留学僧として9年間、混乱しつつある大唐国において更なる研鑽をし、五臺山・清涼寺を始めとして大唐全土に足跡を残し、帰国後は世界で2番目に古い優れた旅行記「入唐求法巡礼行記」を著したのは、あまねく人の知るところである。
時の天皇から最初に「大師号」を貰った「慈覚大師」。天台宗第三代座主として、その後も各地を歴訪し、仙台「瑞巌寺」、山形「山寺」、象潟「甘満寺」、ああ、そう言えば、ついこの間参詣した「目黒不動尊」もそうであった。
天台、真言を開闢した最澄、空海さん程は有名でないとしても、東日本に数々の名刹を創建し、今尚人々の崇拝を受けている。
奇しくも先週、中国洛陽の近郊の町で、円仁さんが長安から難を逃れて、日本に帰国すべく寧波或いは山東に向った途次、この町の古寺の境内で、その行状を印した石板が、「圓仁」の名前と共に発見されたという。
これも今日のお盆、亡くなった家族、先人との魂の交流をはかる何かのよすがかも知れない。・・・今はどうか・・・、つい100年ほど前までは、世界に誇れる日本人は数多いたのだが・・・
今は、やや大分、技術に偏り過ぎてしまったのだろか・・・
日本基督教団鎌倉教会会堂(by ドクターキムルさん)
鎌倉市由比ガ浜の若宮大路沿いにあるは、それまでの木造の会堂が大正12年(1923年)の関東大震災で倒壊したために、大正15年(1926年)に建てられた、鉄筋コンクリート造2階建、塔屋(4階)付の建物である。若宮大路に向かって高くそびえ立つ正面の鐘塔がある塔屋4階部が創建後に増築されたものである。これにより教会会堂らしさが出、戦前に建てられたプロテスタント教会会堂の代表例の一つとなっている。この教会と同じ敷地には付属のハリス幼稚園がある。
鎌倉市景観重要建築物第5号(平成4年(1992年)指定)になっている。
(表紙写真は日本基督教団鎌倉教会会堂)
東海道本線の歴史的痕跡を探す ~横濱驛移設変転史編【建造中】~(by 横浜臨海公園さん)
明治5年(1872年)に品川-横浜間が鉄道仮開業して以来、横浜駅は3回その場所を移動しております。
開業当初の横浜駅は現在の桜木町駅前広場付近だった事は広く知られておりますが、2代目横浜駅が旧東急東横線高島町駅付近に存在していた史実は横浜市民と言えとも忘れ去られているのが現実です。
要するに初代横浜駅から路線が西に延長されると当時と言えど頭端式スイッチバックでは運転上不便この上も無く、間も無く日清戦争勃発と共に軍用列車運転目的の為に陸軍省は初代横浜駅を無視して短路線が建設して輸送の効率化を図ります。
此れが現在の路線の原形になる部分です。
後に、廃止された神奈川駅から高島町付近を経由して程ヶ谷に至る新線が開通して以来、長距離列車は初代横浜駅を経由せず直進する事となります。
大正3年(1914年)12月20日、当時の鉄道院は品川-神奈川駅間を複々線化し各駅停車する線路を1200ボルトで電化工事を施工した蔡に神奈川-桜木町駅間の中間に高島町駅を開設し品川-高島町駅間を電化して都市間高速電車を投入します。
此れが2代目横浜駅の嚆矢となります。
そして翌年の大正4年(1915年)8月15日に横浜市民の便を考慮して高島町駅にルネッサンス様式煉瓦造3階建の壮麗な建築物と共に開業したのが2代目横浜駅です。
2代目横浜駅は改札口を2階に設置して跨線橋で東海道線と京濱線各ホームと連絡する現在で言ふ橋上駅構造で当時としては画期的且つ大胆な構造でしたが、反面真夏ともなると駅全体が室となり蒸し風呂状態で苦痛だったとの古老の回顧も耳にしております。
桜木町駅時代同様、駅構内では現在も続く川村屋がレストラン営業をしており、浜っ子は市電で早めに横浜駅に到着して待ち時間を川村屋で食事を済ませてから列車に乗り込むと言ふスティタスが確立していた様です。
また、高島から程ヶ谷(保土ヶ谷)に抜ける貨物専用線は駅前を高架線で貫通する構造でしたが、他所から来横した者の目にはレンガ建築物の目の前に高架線が存在し威勢良く煙を吐いて走り抜ける蒸気機関車が貨物列車を曳き行き来する姿を目にし奇異さを感じたに相違無かったと思われます。
2代目横浜駅開業に拠り石崎川を挟んだ駅裏側は葦そよぐ湿地帯だったが次第に商業地としての形態が整備され平沼商店街が形成さるに至りましたが、関東大震災に伴う再開発で駅移転が決定的致命傷となり、現在ではすっかり衰退してしまいましたが、此の点では東京萬世橋駅や大阪湊町駅所在地に共通してる事例と言えます。
また桜木町から高島町に駅が移転開業した際に当時の鉄道院が横浜(高島町)-桜木町駅間の旅客営業廃止を検討していた事は当時の資料を検討する限り恐らく事実だったと考えられます。
然るに、当時の横浜駅は市内への入口拠点として駅前から市内中心部に対し市電が開業し輸送を独占していた状態であり、鉄道院は都市間輸送たるインター輸送を主とする指向であれば良く、サバー輸送たる短区間輸送を行う必然性は何ら見出し得なかったものと思われます。
即ち、2代目横浜駅開業と同時に横浜(高島町)-桜木町駅間の旅客営業を現代人の我々から見て驚異に感じるかもしれませんが、朝夕4往復のみの運行に限定した事からも鉄道院の真意の一端が読み取れます。
4ヶ月後の12月30日になり桜木町駅まで電化区間が延長され電車運転を開始したが、それとて積極的根拠が存在したとは傍証に乏しい。
他方、大正7年(1918年)4月1日に横浜-桜木町駅間の高架化工事が完工し該痕跡は現在でも見る事が可能です。
死児の年齢を数えるの例えでは無いが、若し、関東大震災の如き予想外の事例無くば現在でも横浜駅は高島町に設置されていた公算が高いと推定されます。
また平沼商店街は伊勢佐木町や元町と並ぶ横浜屈指の商店街に発展した公算が高かったと推定されます。
然し、関東大震災で2代目横浜駅は損壊被害こそ免れたものの近所の火災が延焼全焼し駅機能が一時的に停止します。
震災復興計画の一環として最大懸案事項として当時の内務省建設局は高島町から平沼浅間下に抜ける新規道路建設(現在の県道横浜生田線)が計画され道路建設上に存在し支障する為に当時の鉄道省に2代目横浜駅の撤去移転を打診してきました。
また帝都復興院は神奈川-桜木町間の旅客営業廃止を前提とする高架線撤去をも横浜市に打診してきます。
然し、当時の渡邉勝三郎横浜市長は、『横浜の現状に鑑み到底納得できず受け入れ難い』として帝都復興院や鉄道省に対し強硬に拒否姿勢を見せ、代案として北幸町の米ライディングサン石油会社所有地を横浜市が買上げ此処に新停車場設置を希望します。
此の辺の経緯に就いては現存する当時の内務省対横浜市との間に交換した公文書を仔細に検証すると緊迫した遣り取りが伝わります。
当時鉄道の復旧工事は最優先で進められ、全損し一番被害が酷い馬入川橋梁ですら9月6日復旧工事着手にも拘らず、神奈川-桜木町間の復旧工事開始が12月5日着工を見ても鉄道省が路線廃止に対し積極的だったのは明白な事実と見るべきです。
結局、横浜市の希望が受容れられ、新駅設置まで高島町で営業後に北幸町付近に移転する事で合意する旨、大正13年(1924年)2月6日附公文書に見られます。
因みに最近公刊された2代目横浜駅に関する最新文献に於ける記述中、横浜駅が高島町から現在位置に移転した最大理由として、駅構内を国道が直角に交差し常に踏切が閉まっていた事に拠る横浜市民をして監督官庁たる鉄道省に対する反発が存在したと称する記述に就いて、然し、実際に該道路、即ち、現在の横浜生田線設置は横浜駅が現在地に移転後の昭和4年(1929年)であり、日時に対する整合性が合わない。
震災発生当時は道路自体が存在せず、故に、該記述に関する限り史実に反し、亦事実無根と言ふべきである。
かくて横浜-桜木町間は存続が決定し昭和39年(1964年)5月19日に桜木町-磯子間が開通し横浜-桜木町間を含め『根岸線』に編入されるまで東海道本線支線でした。
紆余曲折しつつ昭和3年(1928年)10月15日に現在地に移転したのが現3代目横浜駅です。
尚、本旅行記で使用した歴史的写真資料は断り無きものは全部横浜臨海公園個人蔵品。
表紙は第2代目横浜駅本屋絵葉書
横浜臨海公園 蔵
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