大間に関する質問

大間 大間から恐山へバスで行く方法

7月下旬に、函館からフェリーで大間へ渡り、恐山に行きたいと思っています。大間から恐山までバスで行きたいのですが、この間に路線バスなどはあるのでしょうか?よろしくお願いします。....

  大間から恐山へバスで行く方法の詳細


大間 青森大間港までどちらの高速道路が近い?またフェリーは?

所要時間などを教えていただけると助かります。また、北海道へ渡るフェリーなんですが青森〜函館間ですと、3時間30分かかりますが大間〜函館ですと2時間だそうですが八戸青森を取って、大間にでた方が函館に早く到着できるという事....

  青森大間港までどちらの高速道路が近い?またフェリーは?の詳細


大間 青森から大間までどのくらい?

こんにちは!埼玉から北海道まで車で行こうと考えています。大間からフェリーに乗る予定なのですが、青森から大間まで車でどのくらいかかるのでしょうか?....

  青森から大間までどのくらい?の詳細


大間旅行記

日本の旅 みちのく文学を辿る【9】 「飢餓海峡」の舞台 下北半島と恐山(by さすらいおじさんさん)

大間
 函館からフェリーで渡った港・大間町は、本州最北端の漁業の町で2000年にはNHK連続テレビ小説「私の青空」の舞台として大間のマグロや光景が全国に紹介された。大間からバスで下北半島を南に下り本州最北端の鉄道駅・大畑を経由し田名部に出て恐山行きのバスに乗り換えた。
 みちのくの旅の目的の一つであった恐山は日本三大霊山(恐山、高野山、比叡山)、日本三大霊場(恐山、白山、立山)、日本三大霊地(恐山、立山、川原毛)の一つと言われ霊地の中の霊地と言って良いだろう。862年に慈覚大師円仁 が開山したと言われ、立ちこめる硫黄臭と荒涼とした風景は地獄を思わせる。振り返ってみると「宇曽利湖(うそりこ)」という美しい湖と三途の川を渡る赤い太鼓橋があり、こちらは極楽を思わせる。恐山の由来は山中で修業をしていた慈覚大師が、発見した湖を「宇曽利湖(うそりこ)」と名付け、この地を「ウソレヤマ」とし「恐山」となったという説やアイヌ語の「ウッショロ(湾)」とか「ウサツオロヌブリ(灰の多く降る山)」が語源という説などがあるそうだ。下北地方では、恐山が死者の霊が集まる山と信じられているが、「死者の霊が集まる山」としての歴史は比較的浅く、第2次世界大戦後、地獄と極楽を思わせる雰囲気から「死霊の山」のイメージができ、「死者の霊が集まる山」になったと聞いた。イタコが毎年7月20日〜24日の恐山大祭で、死者の霊を呼び寄せることが知られているがイタコの登場も1950年代からとのこと。
 水上 勉(1919−2004年)は青函連絡船・洞爺丸事故をモチーフとした「飢餓海峡」(1963年)を下北半島を舞台に描き1965年には早くも内田吐夢監督のメガホン、三国連太郎、伴淳三郎、左 幸子、高倉 健らのキャストで映画化されている。「飢餓海峡」は日本映画の中でも屈指の名画であり、下北半島の仏ガ浦や恐山のイタコも登場し恐山を全国に知らしめた映画だ。水上 勉は福井県に生まれ9歳から京都の相国寺・瑞春院、等持院で厳しい修行を体験後、様々な職業を遍歴する。1961年に寺での体験を生かした「雁の寺」で直木賞を受賞。生涯で「金閣炎上」「飢餓海峡」「はなれ瞽女おりん」「良寛」「一休」などの名作を残した。水上文学の素晴らしさは水上自信が体験してきた、底辺の人達に対する普通の暮らしをする人間の冷酷さと一部の優しい人達から感じる人間性の原点、本質を包み隠さず表現している点だと思う。「人間とは何か」を追求する作品に多くの映画、演劇、ドラマの制作者が惹きつけられているのは当然だろう。下北半島・恐山の旅は未知の世界を知る印象深いものだった。
(写真は恐山の光景)

【旅行時期】1993/05/22~1993/06/03
【エリア】八戸・三沢・下北半島
【テーマ】歴史・文化・芸術
【投稿者】さすらいおじさん

日本の旅 みちのく文学を辿る【8】 石川啄木が愛した街 函館(by さすらいおじさんさん)

大間
 石川啄木(1886−1912年) は1907年の5月から9月まで函館で生活していた。函館では代用教員や「函館日日新聞」の遊軍記者などを勤めながら小説「漂白」を書いたり、文芸雑誌を編集したりしており、啄木にとってはかなり充実していた期間だったらしく後に「死ぬときは函館で死にたい」と語っている。啄木の言葉通り石川啄木一族の墓地は函館山の中腹、立待岬への途中の津軽海峡が美しく見える場所にあり有名な

「東海の小島の磯の白砂に、われ泣きぬれて蟹とたはむる」

の歌碑もある。
石川啄木一族の墓地の近くには啄木とも親交があり函館を訪れた与謝野晶子(1878−1942年)鉄幹(1873−1935年)の碑がある。鉄幹と晶子は浪漫主義文学運動を展開し1901年に結婚したが晶子の処女歌集「みだれ髪」では、女性が自我や恋愛を表現するなど考えられなかった時代に女性の官能をおおらかに謳い、歌壇に衝撃を与えている。特に代表的な歌

「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」

は晶子が傾倒した「源氏物語」が示した女性の自由で豊かな感情表現を、文明開化の明治時代に取り戻そうとした革命的な挑戦と言えるものではないだろうか。
 1904年には日露戦争の旅順攻囲戦に出兵していた弟を嘆いて「君死にたまうことなかれ」を「明星」に発表。文芸批評家大町桂月などからは、「賊子」と批判されるが晶子は堂々と反論し揺るがなかった。

「君死にたまうことなかれ」
あゝをとうとよ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ、
末に生れし君なれば
親のなさけはまさりしも、
親は刃をにぎらせて
人を殺せとをしへしや、
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや。

日本が国民皆兵を掲げ、大陸進出を目指した時代に本音で堂々と反戦の詩を詠んだ晶子の勇気には頭が下がる。
 五稜郭は日本初の洋式城郭で五つの稜が星形に突き出ているため五稜郭と呼ばれた。幕府が北方防備のためにヨーロッパの城を参考に蘭学者武田斐三郎の設計で1857年から7年がかりで築造したが、皮肉にも戊辰戦争の最後の内戦「箱館戦争」の舞台となった。1868年、大政奉還に不満を持った幕臣・榎本武揚、新撰組副長・土方歳三らがここを占拠し政府軍に反攻するが、土方歳三は戦死、翌年5月に榎本は降伏・開城し、「蝦夷共和国」建設は果たせなかった。もし「蝦夷共和国」ができていれば日本の歴史は変わっていただろう。公園の入口には五稜郭タワーがあり、地上約50メートルの展望台からは五稜郭が美しく見える。
 函館山は標高334メートル、周囲9キロメートルの死火山で牛が寝そべっている姿に似ているので臥牛山(がぎゅうざん)とも言われる。夜景は香港、ナポリをしのぎ世界一との評価もあるが、確かに見事な夜景だった。
 函館港から下北半島の大間までフェリーに乗った。函館シーポートプラザでは1988年まで運航し、仕事を終えた青函連絡船・摩周丸を見ることができた。函館は北島三郎の「函館の女」をはじめたくさんの演歌に歌われているが、石川啄木が愛したように郷愁を誘う魅力のある街だった。
(写真は五稜郭タワーから見る五稜郭)



【旅行時期】1993/05/22~1993/06/03
【エリア】函館・大沼・長万部
【テーマ】歴史・文化・芸術
【投稿者】さすらいおじさん

車で東北-2 ★下北半島(by シベックさん)

大間
’02年9月末、かねてからの念願だった本州最北の地を目指して、マイカーでの一人旅。
1回目の★男鹿半島に続き2回目の下北半島です。

青森市内を朝出発し浅虫経由で野辺地から国道279号線でむつ、恐山方面に向かいました。その先は念願の大間崎です。

むつ泊の後、尻屋崎から六ヶ所村、十和田市泊までの2日間の旅の記録です。

写真は大間崎、本州最北の碑。

【旅行時期】2002/09/20~2002/09/21
【エリア】下北半島
【テーマ】
【投稿者】シベック

青春18きっぷの旅2007冬 〜早春の南房総2・館山〜(by 旅猫さん)

大間




保田駅から、列車に揺られること20分で館山に到着。
ホームへ降りると、冬とは思えないような穏やかな陽気。
館山城跡へ行ってみようと、駅前のバス停で時間を調べたら、ちょうど出たばかり。
どうしようかと迷っていたら、駅前の土産物屋にレンタサイクルの幟を発見。
天気も良いし、久しぶりにサイクリングも楽しいかと思い、借りることにした。

地図を持っていないので、駅から見えた方角へと自転車を走らせる。
学生の頃までは、毎日のように乗っていた自転車も、今では旅先で乗るだけ。
風を切って走るのは、やはり気持ちの良いものです。

途中で見つけた弁当屋で、昼食用に弁当を買い込み、さらに走っていると、どうも道に迷ったよう。
いつしか海が目の前に見えてきた。

【旅行時期】2007/01/14~2007/01/14
【エリア】館山
【テーマ】歴史・文化・芸術
【投稿者】旅猫

大間のウニ、マグロ(by ◎ ししまる ◎さん)

大間
 本州最北端を目指しつつ、ウニとマグロを食べに大間に来ました。
 ウニの味の濃さにびっくり。

↓くわしい旅日記はこちら
  • http://sisima.fc2web.com/ryokou/0403aomori/aotop.htm

  • 【旅行時期】2004/03/~2004/03/
    【エリア】下北半島
    【テーマ】
    【投稿者】◎ ししまる ◎

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