下北半島に関する質問
三内丸山遺跡、下北半島
今度青森に旅行に行きます。1日目三内丸山遺跡周辺、2日目下北半島を回りたいなと思っています。特に、下北半島の効率よいまわりかたを悩んでいます。よろしくおねがいします。....
下北半島から津軽半島への移動、フェリーと車、どちらが速い?
で出かける計画です。1泊目下北半島で、2泊目には津軽半島の竜飛方面に移動するのですが、下北汽船を利用して車も航送して脇野沢〜蟹田を船で渡るのと、車で青森を経由して津軽半島方面に走るのとでは、....
下北半島の良いお宿を教えてください。
今夏、下北半島へのドライブ旅行を予定しています。そこで、お勧めの宿を教えて下さい。(1)あまり大規模でなく(2)お料理が美味しくて(3)お部屋づきの露天風呂があるの条件を満たせば最高ですが、(3)は....
下北半島旅行記
北海道・トマムスキー〜ガレリアタワースィート〜(by crosswordさん)
スキーで、北海道のトマムに行ってきました。一面真っ白の雪のなかにいることが信じられないほどの美しい世界で、なんとかですが徐々に滑れるようになってきました。トマムの雪の美しさと札幌の街の様子です。
富良野スキーへの旅〜新富良野プリンスホテル〜(by crosswordさん)
大阪・伊丹空港を飛び立ち、新千歳空港を目指します。
眼下を見下ろすと次々に日本地図が展開されていくのがわかります。
青森上空!三沢空港をまじかに見ながら、下北半島を駆け抜けると一気に北海道です。雪を被った景色はひときわ美しく感じられました。
新千歳空港に到着後、バスで富良野へと向かいます。
宿泊は新富良野プリンスホテルです。
まだスキーを始めてから数回ほどですが、スキー教室に通いながらだんだんと滑れるようになってくるのは楽しみであり、喜び。
ああ〜滑れるんだ〜という感動がいいですね。
もっと早くから滑っていたら、また違った世界が拡がっていたのだと思いますが、いまからでも遅くないそんな楽しみが気に入っています!
日本の旅 みちのく文学を辿る【9】 「飢餓海峡」の舞台 下北半島と恐山(by さすらいおじさんさん)
函館からフェリーで渡った港・大間町は、本州最北端の漁業の町で2000年にはNHK連続テレビ小説「私の青空」の舞台として大間のマグロや光景が全国に紹介された。大間からバスで下北半島を南に下り本州最北端の鉄道駅・大畑を経由し田名部に出て恐山行きのバスに乗り換えた。
みちのくの旅の目的の一つであった恐山は日本三大霊山(恐山、高野山、比叡山)、日本三大霊場(恐山、白山、立山)、日本三大霊地(恐山、立山、川原毛)の一つと言われ霊地の中の霊地と言って良いだろう。862年に慈覚大師円仁 が開山したと言われ、立ちこめる硫黄臭と荒涼とした風景は地獄を思わせる。振り返ってみると「宇曽利湖(うそりこ)」という美しい湖と三途の川を渡る赤い太鼓橋があり、こちらは極楽を思わせる。恐山の由来は山中で修業をしていた慈覚大師が、発見した湖を「宇曽利湖(うそりこ)」と名付け、この地を「ウソレヤマ」とし「恐山」となったという説やアイヌ語の「ウッショロ(湾)」とか「ウサツオロヌブリ(灰の多く降る山)」が語源という説などがあるそうだ。下北地方では、恐山が死者の霊が集まる山と信じられているが、「死者の霊が集まる山」としての歴史は比較的浅く、第2次世界大戦後、地獄と極楽を思わせる雰囲気から「死霊の山」のイメージができ、「死者の霊が集まる山」になったと聞いた。イタコが毎年7月20日〜24日の恐山大祭で、死者の霊を呼び寄せることが知られているがイタコの登場も1950年代からとのこと。
水上 勉(1919−2004年)は青函連絡船・洞爺丸事故をモチーフとした「飢餓海峡」(1963年)を下北半島を舞台に描き1965年には早くも内田吐夢監督のメガホン、三国連太郎、伴淳三郎、左 幸子、高倉 健らのキャストで映画化されている。「飢餓海峡」は日本映画の中でも屈指の名画であり、下北半島の仏ガ浦や恐山のイタコも登場し恐山を全国に知らしめた映画だ。水上 勉は福井県に生まれ9歳から京都の相国寺・瑞春院、等持院で厳しい修行を体験後、様々な職業を遍歴する。1961年に寺での体験を生かした「雁の寺」で直木賞を受賞。生涯で「金閣炎上」「飢餓海峡」「はなれ瞽女おりん」「良寛」「一休」などの名作を残した。水上文学の素晴らしさは水上自信が体験してきた、底辺の人達に対する普通の暮らしをする人間の冷酷さと一部の優しい人達から感じる人間性の原点、本質を包み隠さず表現している点だと思う。「人間とは何か」を追求する作品に多くの映画、演劇、ドラマの制作者が惹きつけられているのは当然だろう。下北半島・恐山の旅は未知の世界を知る印象深いものだった。
(写真は恐山の光景)
日本の旅 みちのく文学を辿る【8】 石川啄木が愛した街 函館(by さすらいおじさんさん)
石川啄木(1886−1912年) は1907年の5月から9月まで函館で生活していた。函館では代用教員や「函館日日新聞」の遊軍記者などを勤めながら小説「漂白」を書いたり、文芸雑誌を編集したりしており、啄木にとってはかなり充実していた期間だったらしく後に「死ぬときは函館で死にたい」と語っている。啄木の言葉通り石川啄木一族の墓地は函館山の中腹、立待岬への途中の津軽海峡が美しく見える場所にあり有名な
「東海の小島の磯の白砂に、われ泣きぬれて蟹とたはむる」
の歌碑もある。
石川啄木一族の墓地の近くには啄木とも親交があり函館を訪れた与謝野晶子(1878−1942年)鉄幹(1873−1935年)の碑がある。鉄幹と晶子は浪漫主義文学運動を展開し1901年に結婚したが晶子の処女歌集「みだれ髪」では、女性が自我や恋愛を表現するなど考えられなかった時代に女性の官能をおおらかに謳い、歌壇に衝撃を与えている。特に代表的な歌
「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」
は晶子が傾倒した「源氏物語」が示した女性の自由で豊かな感情表現を、文明開化の明治時代に取り戻そうとした革命的な挑戦と言えるものではないだろうか。
1904年には日露戦争の旅順攻囲戦に出兵していた弟を嘆いて「君死にたまうことなかれ」を「明星」に発表。文芸批評家大町桂月などからは、「賊子」と批判されるが晶子は堂々と反論し揺るがなかった。
「君死にたまうことなかれ」
あゝをとうとよ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ、
末に生れし君なれば
親のなさけはまさりしも、
親は刃をにぎらせて
人を殺せとをしへしや、
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや。
日本が国民皆兵を掲げ、大陸進出を目指した時代に本音で堂々と反戦の詩を詠んだ晶子の勇気には頭が下がる。
五稜郭は日本初の洋式城郭で五つの稜が星形に突き出ているため五稜郭と呼ばれた。幕府が北方防備のためにヨーロッパの城を参考に蘭学者武田斐三郎の設計で1857年から7年がかりで築造したが、皮肉にも戊辰戦争の最後の内戦「箱館戦争」の舞台となった。1868年、大政奉還に不満を持った幕臣・榎本武揚、新撰組副長・土方歳三らがここを占拠し政府軍に反攻するが、土方歳三は戦死、翌年5月に榎本は降伏・開城し、「蝦夷共和国」建設は果たせなかった。もし「蝦夷共和国」ができていれば日本の歴史は変わっていただろう。公園の入口には五稜郭タワーがあり、地上約50メートルの展望台からは五稜郭が美しく見える。
函館山は標高334メートル、周囲9キロメートルの死火山で牛が寝そべっている姿に似ているので臥牛山(がぎゅうざん)とも言われる。夜景は香港、ナポリをしのぎ世界一との評価もあるが、確かに見事な夜景だった。
函館港から下北半島の大間までフェリーに乗った。函館シーポートプラザでは1988年まで運航し、仕事を終えた青函連絡船・摩周丸を見ることができた。函館は北島三郎の「函館の女」をはじめたくさんの演歌に歌われているが、石川啄木が愛したように郷愁を誘う魅力のある街だった。
(写真は五稜郭タワーから見る五稜郭)
東北10日間のたび(by jhonさん)
遠い道のり、2600キロ、秋田、男鹿半島、十和田湖、下北半島恐山、中尊寺、山寺、等東北の主だった所全て今回回りました。
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