関東 信越 国税局に関する質問

関東 信越 国税局 関東信越国税局の局長の名前

現在の関東信越国税局の局長の名前を教えてください!ホームページなどを見たのですが見つけられませんでした。よろしくお願いします。

  関東信越国税局の局長の名前の詳細


関東 信越 国税局 税務大学校について

考えていました。今はそれも気持ちの中にはありつつ、税務の方も考えています。税務の方も専門学校に進んでから受験の方が可能性が高いでしょうか?尚、居住地から関東信越国税局の管内となります。まとまらない

  税務大学校についての詳細


関東 信越 国税局 山梨は関東地方か?

天気予報などで、気象庁でもヤフーでも山梨県が関東地方に分類されていますが、中学校の地図帳では中部地方に分類されています、この理由がわかりましたら教えてください。お願いいたします。

  山梨は関東地方か?の詳細


関東 信越 国税局旅行記

湘南 平塚七夕まつり (2010年)(by とりおさん)

関東 信越 国税局
日本三大七夕と言えば・・・。
全国的に仙台の七夕は有名。
あと、思い出すのはどことどこでしょう?

今回は、「三大七夕(関東三大七夕なのでしょうか?)」に含まれる(はず!の)湘南・平塚七夕まつりに行って来ました。

今年の七夕まつりの期間・日程は、7月1日~4日です。

県内に住んでいても、1度も行った事が無い人が多いようです。
お近くの方、平塚まで出れる環境の方はぜひ行ってみて下さい。

【旅行時期】2010/07/01~2010/07/03
【エリア】平塚・大磯
【テーマ】
【投稿者】とりお

鎌倉寸松堂(by ドクターキムルさん)

関東 信越 国税局
 鎌倉寸松堂は由比ガ浜大通りの笹目町にある。笹目町、長谷界隈のランドマークとなっている建物である。昭和11年に、鎌倉彫の彫師(佐藤宗岳)の店舗併用住宅として建てられた。一見、木造3階建に見えるが、木造2階建搭屋付である。塔の上に九輪が上がり三重塔のようにも見え、窓は城郭建築に見られる武者窓である。全体としては 寺院建築と城郭建築が町屋と合体したような建物である。
 しかし、屋根は銅板瓦棒葺きであるから寺院建築の色合いが強い。関東大震災後は、鎌倉では屋根を軽くするためにトタン屋根が流行ったが、寺院や神社では銅板が上がった。それを真似たのであろう。あるいは、近くの鎌倉彫の白日堂には瓦が上がり、城郭風の建物であったことから、銅板瓦棒葺きの寺院風の建物にし、九輪まで上げたのではないか。
 建物は、平成18年には国の登録有形文化財に登録されており、鎌倉の景観重要建築物(指定第4号)(平成4年(1992年))にもなっている。
 残念なことに、1階店舗部分のショーウインドー向かって左側の切妻の屋根には牡丹をあしらった懸魚があるが、向かって右側は無くなっている。おそらくは同じものがあったのであろう。こうしたところの復元は必要であろう。
鎌倉寸松堂の向かって右の道路の奥には、鎌倉町青年団が昭和4年3月に建てた「塔之辻」石碑がある。しかし、現在は道路が交わる辻ではない。
さらに重要な石碑がある。鎌倉寸松堂の向かって右の前には「これより東海道」の道標がある。昭和11年に現在の店舗を建てる際に、庭にあった石碑が邪魔になったので店先に移したものだそうだ。かつては「塔之辻」石碑があるあたりが辻であり、道路傍には道標があったのであろう。中砥にするような石の材質にも見え、丈夫そうだ。かつては藤沢から鎌倉を経由し、朝夷奈切通を越え六浦に至り、走水から房総に渡る「古東海道」があった。その道標である可能性もある。それならば400年以上前のものであり、貴重である。
(表紙写真は鎌倉寸松堂)

【旅行時期】2010/01/~2010/01/
【エリア】鎌倉
【テーマ】歴史・文化・芸術
【投稿者】ドクターキムル

鎌倉の石碑巡り(3)-鎌倉駅から極楽寺(by ドクターキムルさん)

関東 信越 国税局
 鎌倉には戦前に建てられた石碑が多くある。それを巡ろうと出かけた。鎌倉市教育総務部教育センターのWeb:鎌倉市GreenNet「鎌倉の石碑」(
  • http://www.city.kamakura.kanagawa.jp/kyouikuc/sekihi18.html
  • )を頼りに、ここに掲載されている84の石碑を順次巡った。結論から言うと、このWebでは石碑の所在地の番地や時には町名までに間違いがあり、これを頼りに全部巡ることはとても出来ない相談だ。実際に鎌倉市教育総務部教育センターの者が石碑の所在地を確認してWebに掲載したものと思われるが、まるで小学生以下の仕事ぶりだ。少なくとも、鎌倉町は昭和14年11月3日に鎌倉市になっているのであるから、これ以降の昭和15年3月や昭和16年3月に建てられた石碑が鎌倉町青年団ということはありえようか。石碑には鎌倉市青年団と彫られている。碑銘が正しくないものも何碑か見受けられる。税金を払っている鎌倉市民は抗議すべきかも知れない(。電話番号:0467(23)3000
    Fax番号:0467(24)5569 内線番号:2465 メールアドレス:kenkyu@city.kamakura.kanagawa.jp)。実際に行かれる場合には鎌倉史跡碑事典(
  • http://www.kcn-net.org/sisekihi/menu.htm
  • )(83石碑)で調べてからの方が確実であろう。
     日蓮上人の所謂「辻説法」の旧跡を示す石碑も、今も大路の2箇所にある。「日蓮大聖人辻説法之旧地」(本興寺、建立年は不明)(大町の本興寺門前)と「日蓮上人辻説法之阯」(鎌倉町青年団、昭和11年)(小町2丁目)である。当時は大町、小町ともに鎌倉の繁華街であり、そこの辻で日蓮上人が説法したことはあっただろう。どちらとも言えない。しかし、「俊基朝臣墓所」(鎌倉町青年会、大正6年)と「玉縄首塚由来」(玉縄史蹟顕彰会、昭和43年)と「稲村崎」(鎌倉町青年団、大正13年)と「主馬盛久之頸座」(鎌倉町青年団、昭和10年)と「勝長寿院旧蹟」(鎌倉町青年会、大正6年)の5つは建てる必要のないものである。墓前に立つ大きくて立派な「贈従三位日野公墓碑銘」(明治17年)と古くて(建立年は剥離して判読できない)立派な「玉縄首塚碑」、公園の石碑群の中心となる古い「稲村崎碑」(明治27年)の石碑があり、「主馬盛久之頸座」の横には古い「盛久頸座」の石碑(大正8年)があり、「勝長寿院旧蹟」(大正6年)の横には古い「勝長寿院旧蹟址碑」(明治42年)があるからだ。また、「玉縄城址」は2つあり、何やら「大森貝塚」碑のようだが、団地内にある新しい石碑(鎌倉友青会、昭和31年)は記載内容に乏しい。これに対し、諏訪壇(城祉)登り口にある石碑(鎌倉同人会、大正15年)の方が古く、記載内容もしっかりしている。したがって、「玉縄城址」(鎌倉友青会、昭和31年)は蛇足である。石碑建立当時に「事業仕分け」があったならば、蓮舫議員でなくても「2つはいらないでしょう。」となる。付け加えると、平成12年に建てられた頼朝墓前の「頼朝公顕彰碑」(源頼朝会)は新し過ぎよう。
     全てが公開されている訳ではない。「偏界一覧亭旧跡」は瑞泉寺裏山にあるが、鎌倉石の階段が磨り減ってしまったとして公開中止になっている。実際に公開中止に到った理由は、この史跡がいたずらされたことがきっかけのようだ。一人の心ない行為が鎌倉を訪れる人たちの楽しみを奪ってしまう。
     現在、石碑がないものもある。「和賀江嶋」(鎌倉町青年団、大正13年)は昨年秋の台風で倒壊し、市文化財課で修復中である。
     民家の敷地内にあるものがある。「永安寺址」(鎌倉町青年団、大正15年)は造園業を営む植政さんの庭にある。「荒居閻魔堂阯」(鎌倉町青年団、昭和13年)は民家(借家)の庭端に建っている。これらは民家の人に断ってからでないとならないのは言うまでもない。また、「玉縄城址」(鎌倉同人会、大正15年)は女子校(清泉女学院(中・高校))の敷地内であり、校門でその旨を告げ、校内受付で申請書をもらい、その書面に必要事項を記載して許可を受ける必要がある。
     石碑の中には立地場所が悪いものがある。「西御門」(鎌倉町青年団、大正15年)と「桑ケ谷療養所跡」(長谷上町文化会、昭和37年)は道路上にある。いつ車が衝突するとも限らない。「桑ケ谷療養所跡」は新しいものだが表面には車であろう、こすれた痕が見られる。壊れてからでは遅い。道路から奥に引っ込めてほしいものだ。
     最も重要なことは、これら大正6年以前にも鎌倉には石碑が建てられていることだ。「贈従三位日野公墓碑銘」(明治17年)と「玉縄首塚碑」と「稲村崎碑」(明治27年)、「盛久頸座」(大正8年)、「勝長寿院旧蹟址碑」(明治42年)は上述したが、他にもある。目に付いたところでは、光則寺石碑、御霊神社石碑(大正2年)、大江広元墓所石碑、毛利季光墓所石碑、「明治天皇閲兵之処」石碑(八幡宮)(明治6年)、「鉄道轢死之碑」(明治42年)、「復興寄師芳君之碑」(海蔵寺)、「竺僊梵僊和尚顕彰碑」(葛原ヶ岡ハイキングコース)(昭和15年)、「道路開墾記念之碑」(稲村ガ崎)(昭和13年)、「ローベルト・ゴッホ碑」(稲村ガ崎)(大正元年)、「関東大震災慰霊碑」(浄泉寺)などが挙げられる。
     一番気になる碑は、寸松堂(鎌倉市笹目町5)前の「これより東海道」の石碑である。昭和11年に有形文化財に指定されている店舗(木造2階建搭屋付(一見木造3階建)、九輪が上がる)を建てる際に、庭にあった石碑が邪魔になったので店先に移したものだそうだ。この裏には「塔之辻」(鎌倉町青年団、昭和4年)があるが、道路は交差していない。かつては辻であり、道路傍には道標があったのであろう。中砥にするような石の材質にも見え、丈夫そうだ。かつては藤沢から鎌倉を経由し、朝夷奈切通を越え六浦に至り、走水から房総に渡る「古東海道」があった。その道標である可能性もある。それならば400年以上前のものであり、貴重である。
     今回は、JR鎌倉駅から南の極楽寺界隈のコースを巡る。
    (表紙写真は寸松堂前の「これより東海道」の石碑)

    【旅行時期】2010/01/~2010/01/
    【エリア】鎌倉
    【テーマ】歴史・文化・芸術
    【投稿者】ドクターキムル

    小金井から小金井へ。「下野国分寺」跡。(by ちゃおさん)

    関東 信越 国税局
    山手線の駅員に「小金井はどう行ったら良いですか?」と聞いても、駅員は返事に困るかも知れない。

    東京周辺には小金井駅は2箇所あり、近い方の駅は中央線、三鷹の先にあり、次ぎの国分寺の手前にある。

    もう一つは、宇都宮線(東北本線)の宇都宮に到着する手前にある駅で、以前は北関東の人でないとそれ程知名度は高くなかったが、ここ数年、湘南ラインと言うJR線が茅ヶ崎ー小金井間を頻繁に往復し、その北の終点が小金井となっていて、この電車を利用する人にとっては、都下の小金井よりむしろこちらの方の知名度が高まっているかも知れない。

    梅雨の合間、その下州小金井を訪ねることにした。当初、この一つ先の自治医大前にある薬師寺、更に岩舟町にある小野寺・大慈寺、或いは、ここ小金井の国分寺、のどこに行こうか、迷ってもいたが、いつ雨になるかも分からず、又、この地を訪問するに際し、先ずは円仁さんの故地を訪ねるべき、とのことで、新宿からの湘南ライン、小金井行きに飛び乗った。

    幸いに雨もなく、下野国分寺、「天平の丘公園」の広い敷地には、訪問客もなく、鬱蒼とした樹木の中、「防人の路」など散策し、往時を偲ぶことが出来た。

    この下野、元々はこの辺一体は「毛の国」、「毛野(けぬ)国」と呼ばれていたが、いつの頃からか、上下二つの国に別れ、今の群馬県が「上毛」、所謂「上州」と呼ばれ、ここ栃木県が「下野」(しもつけ)、又は「下州」と呼ばれるようになった。元々この辺一体には「栃木県」の名称にも残されている「栃の木」がいっぱいに密生していた土地とも言われている。


    聖武天皇の御世、天平の時代、皇后光明子の病気平癒を願い全国津々浦々の国都の地に国分寺、国分尼寺が建立され、今でも現存する建物もあれば、礎石しか残っていない所でも「国分寺」としての地名が残されている。

    この「下野国分寺」。今周辺は緑なす稲穂の海となっているが、今から1300年前の天平の時代には、この辺りにも大きな集落があったのかも知れない。

    黒川を挟み、対岸の壬生と比べ一段高くなっている丘陵地帯は、国の施設としての国分寺、国分尼寺を建立するには最適の地だったかも知れない。幼少の頃の円仁さん、慈覚大師も黒川を渡り、この寺に詣でかと思うと、懐かしく思われた。

    【旅行時期】2010/07/06~2010/07/06
    【エリア】小山・佐野・足尾
    【テーマ】寺社・札所めぐり
    【投稿者】ちゃお

    のり真安斎商店(鎌倉長谷)(by ドクターキムルさん)

    関東 信越 国税局
     鎌倉長谷の由比ガ浜大通りと長谷通りには古い建物の商店や民家が多く見受けられる。のり真安斎商店も鎌倉長谷の由比ガ浜大通りにある古くからの商店で、大正13年に建てられた店の建物が鎌倉の景観重要建築物(指定第21号)になっている。関東大震災(大正12年(1923年))後の建物である。表からは寄棟造瓦葺のように見える。安斎商店は大正2年(1913年)創業の水産物加工問屋卸商店、いわゆる乾物屋である。
     大通りの向かい側には二階建切妻造の戦前に建てられたと思われる民家が2軒あるが、こちらの方が立派である。しかし、この大通り沿いの商店街には古いモルタル造りが何軒かあるが、そうした建物よりは多少は見栄えがしようか。
    (表紙写真はのり真安斎商店)

    【旅行時期】2010/01/~2010/01/
    【エリア】鎌倉
    【テーマ】歴史・文化・芸術
    【投稿者】ドクターキムル

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